2008年、北京オリンピックの競泳会場「水立方(ウォーターキューブ)」で、信じられない光景が繰り広げられました。世界記録が次々と、まるで魔法のように塗り替えられていったのです。その中心にあったのが、イギリスのSPEEDO(スピード)社がNASAと共同開発した革新的な水着、「レーザーレーサー(LZR Racer)」でした。
着用した選手が世界記録の90%以上を更新し、競泳界の歴史を塗り替えたこの水着は、なぜそれほどまでに速かったのでしょうか?そして、なぜわずか数年で「禁止」という運命を辿ったのでしょうか?
本記事では、レーザーレーサーの驚異的なテクノロジー、禁止に至るまでの劇的な経緯、そして現在の競泳界に残した影響までを徹底的に解説します。約7万円という価格や、着るのに30分かかるという伝説のエピソードの真実にも迫ります。
レーザーレーサーとは?基本情報を解説
SPEEDO社が開発した革命的な競泳水着
レーザーレーサー(LZR Racer)は、競泳用品大手のSPEEDO社が創業80周年を記念して開発し、2008年2月に発表した競泳用水着です。「世界最速の水着」を作るというミッションのもと、アメリカ航空宇宙局(NASA)などの研究機関と提携。流体力学の観点から徹底的な研究が行われました。
| 項目 | 詳細情報 |
|---|---|
| 製品名 | LZR Racer(レーザー・レーサー) |
| メーカー | SPEEDO(スピード社・イギリス) |
| 開発協力 | NASA(アメリカ航空宇宙局)、ANSYS社など |
| 発売年 | 2008年 |
| 価格(当時) | ロングジョン(全身):約79,000円 ハーフスパッツ:約45,000円 |
| 主要素材 | LZR Pulse(極薄の撥水素材) ポリウレタンパネル |
| 特徴 | 無縫製(超音波溶着)、強力な着圧、浮力サポート |
| 着用時間 | 20分~40分(非常にきついため補助が必要な場合も) |
レーザーレーサーの主な特徴
最大の特徴は、縫い目をなくした「超音波溶着(ボンディング)」技術です。従来の糸による縫製で生じていたわずかな凹凸さえも排除し、極限まで水の抵抗を減らしました。さらに、NASAの風洞実験データを基に、水着の表面にポリウレタン製のパネルを配置。これにより、水中での抵抗を大幅に削減することに成功しました。
その外見も未来的で、黒を基調とした全身を覆うスーツ型(ロングジョンタイプ)が主流でした。これは、皮膚が水に触れる面積を減らし、より摩擦抵抗の少ない素材で体を包み込むという発想に基づいています。
レーザーレーサーはなぜ速い?3つの科学的理由
レーザーレーサーが「魔法の水着」と呼ばれたのには、明確な科学的根拠があります。単に水を弾くだけでなく、泳ぐ人間の身体構造そのものを物理的にサポートする機能が備わっていました。
| 理由 | 具体的な機能・仕組み | 効果・データ |
|---|---|---|
| ① 強力な浮力 | ポリウレタンパネルが空気を微細に含み、浮力を発生させる | 下半身が沈むのを防ぎ、理想的なフラット姿勢を維持 |
| ② 体型補正(着圧) | コルセットのような強烈な締め付けで体を円柱状に整える | 筋肉の余計な振動を抑制し、エネルギーロスを軽減 |
| ③ 抵抗削減 | NASAテスト済みの超軽量・撥水素材「LZR Pulse」 | 従来の織物素材に比べ、水の抵抗を約24%削減 |
理由①:強力な浮力効果で身体が浮く
最も議論を呼んだのがこの「浮力」です。レーザーレーサーに貼り付けられたポリウレタンパネルは、水中での浮力を補助する役割を果たしました。水泳において、下半身が沈むことは大きな抵抗となります。この水着は、疲れが出始めるレース後半でも腰の位置を高く保ち、水面と平行な姿勢(ストリームライン)を維持させるサポート機能を持っていました。
理由②:強い締め付けで体型を補正
「着るのに30分かかる」と言われるほど、レーザーレーサーの締め付けは強烈です。これは単にサイズが小さいわけではなく、意図的な設計です。人間の体は凹凸があり、水中で抵抗を生みます。この水着は強力な着圧で体を締め上げ、凹凸の少ない「流線型」に強制的に補正します。また、筋肉のブレ(無駄な振動)を抑えることで、スタミナの消耗を防ぐ効果もありました。
理由③:水の抵抗を25%削減する素材
NASAのラングレー研究所で行われた素材テストでは、60種類以上の候補から最適な素材が選ばれました。採用された「LZR Pulse」という素材は、極めて薄く、撥水性が高く、従来の競泳水着と比較して表面摩擦抵抗を大幅に低減させました。さらに縫い目をなくしたシームレス構造により、全体としての抵抗係数は驚異的な数値を記録しました。
レーザーレーサーの速さの真髄は、「素材」だけでなく「体型を変える」ことにありました。人間をより魚に近い、抵抗の少ない形状へと物理的に変形させる「ギア」としての側面が強かったのです。
レーザーレーサーが禁止された理由
これほど画期的な発明が、なぜ短期間で姿を消すことになったのでしょうか?それは皮肉にも、その性能があまりにも高すぎたからでした。
2010年の着用禁止に至る経緯
北京五輪後の2009年、ローマで開催された世界水泳選手権では、さらに進化した(全面ポリウレタン製の)高速水着が登場し、43個もの世界新記録が乱立しました。「水泳は人間の能力を競うものか、テクノロジーを競うものか」という議論が爆発。国際水泳連盟(FINA、現World Aquatics)は事態を重く見、ルールの抜本的な改正に踏み切りました。
| 項目 | 2009年まで(レーザーレーサー時代) | 2010年以降(新ルール) |
|---|---|---|
| 素材 | ポリウレタン、ラバー等の不織布素材OK (厚さ制限ほぼなし) |
布帛(織物)素材のみに限定 (透過性が必要、厚さ0.8mm以下) |
| 形状(男子) | 全身(フルボディ)、ロングジョンOK | ウエストから膝上まで(ジャマータイプのみ) |
| 形状(女子) | 全身、首から足首までOK | 肩から膝上まで(背中は空いていること) |
| ジッパー | 使用可能 | 使用禁止 |
禁止の3つの主な理由
- 「技術ドーピング」との批判:
本来の身体能力以上の推進力や浮力を道具が得させていると判断されました。特に「浮力」を与えることは、水泳の根本的な競技性を損なうとされました。 - 公平性の欠如:
1着7万円以上する水着は、資金力のない選手や国には大きな負担です。また、メーカー契約の縛りでレーザーレーサーを着られない選手が不利になる状況も問題視されました。 - 競技の本質の喪失:
過去の偉大な記録があっさりと、大量に更新される状況は、スポーツの歴史や価値を毀損しかねないという懸念がありました。
2010年1月のルール改正により、レーザーレーサーを含む「ラバー素材の高速水着」は公式大会での使用が全面的に禁止されました。現在は「FINA承認マーク」がついた、布帛素材の水着のみが使用可能です。
北京五輪でのレーザーレーサー旋風
記録更新ラッシュの実態
2008年北京オリンピックにおけるレーザーレーサーの支配率は圧倒的でした。競泳競技で生まれた世界記録のほとんどが、この水着を着用した選手によるものでした。
| 項目 | データ |
|---|---|
| 金メダル着用率 | 競泳種目の約94%(一説には98%) |
| 世界新記録数 | 大会期間中だけで23個以上 |
| メダル獲得者の着用率 | 全体の約89% |
| 象徴的な選手 | マイケル・フェルプス(8冠達成) 北島康介(2大会連続2冠) |
日本選手が直面した「着用問題」
この騒動で最も苦悩したのは日本の選手たちでした。当時、日本水泳連盟は国内メーカー(ミズノ、アシックス、デサント)と契約しており、日本代表選手は原則としてこれら3社の水着を着用する義務がありました。
しかし、レーザーレーサーの性能差があまりに明白になると、「メダルのために契約外のSPEEDOを着るべきか、義理を通して国内メーカーを着るべきか」という極限の選択を迫られました。最終的に日本水連は特例として「他社製品の着用も認める」という異例の決断を下しました。
北島康介選手が決勝の舞台でSPEEDO社の水着を選び、見事に金メダルを獲得して「何も言えねぇ」という名言を残した背景には、この壮絶な水着戦争があったのです。
レーザーレーサーと他の高速水着との違い
高速水着の進化の歴史
レーザーレーサーは突然変異的に生まれたわけではありません。水着の進化は、抵抗との戦いの歴史でもありました。
| 年代 | トレンド・技術 | 代表的な出来事 |
|---|---|---|
| 1990年代後半 | 全身水着の黎明期 | サメ肌を模した「ファストスキン」などが登場。まだ布素材が中心。 |
| 2000年 | シドニー五輪 | イアン・ソープが全身水着で活躍し、世界的に認知される。 |
| 2008年 | レーザーレーサー登場 | SPEEDO社がNASAと提携。無縫製、ポリウレタンパネル採用。 |
| 2009年 | 「ラバー水着」全盛 | レーザーレーサーを超え、全面ゴム素材の水着(アリーナ、ジャケッド等)が登場。記録ラッシュが加速。 |
| 2010年 | ルール改正(禁止) | ラバー素材禁止。布帛素材、形状制限(男子はスパッツ型)へ回帰。 |
| 現在 | 布帛高速水着の進化 | ルール内で、硬い布素材による着圧と撥水技術を極限まで高めたモデルが主流。 |
現在の競泳水着のルールと技術
現在の競泳水着(レース用)は、2010年の新ルールに基づき「布帛(ふはく)」と呼ばれる織物素材で作られています。しかし、進化が止まったわけではありません。各メーカーは、「ルール内でいかに速くするか」を追求し、非常に硬く伸びにくい素材を使って着圧を高めたり、撥水加工技術を向上させたりしています。
現代のトップモデルも着るのに10分以上かかるほどタイトですが、レーザーレーサーのような「浮力」や「完全な被膜」効果はありません。純粋に選手の筋肉をサポートし、抵抗を減らす方向に進化しています。
レーザーレーサーは現在入手できる?
「一度でいいからあの伝説の水着を着てみたい」と思う方もいるかもしれません。現在の入手状況はどうなっているのでしょうか。
公式大会では使用不可
まず大前提として、公式の水泳大会では一切使用できません。FINA(現World Aquatics)の承認マークがない、もしくは禁止リストに入っているため、着用して出場すると失格になります。あくまで個人の楽しみや、非公式なタイムトライアル用となります。
| プラットフォーム | 価格相場 | 注意点 |
|---|---|---|
| メルカリ・ラクマ | 5,000円〜20,000円 (状態による) |
ポリウレタン素材は経年劣化(加水分解)しやすいため、未使用品でも脆くなっている可能性が高い。 |
| ヤフオク! | 3,000円〜30,000円 (レア度による) |
当時の箱付き美品はコレクターズアイテムとして高値がつくことがある。 |
| 海外eBay | $50 〜 $300 | 海外サイズは日本サイズと異なるため注意が必要。 |
練習用・コレクションとしての入手方法
実際に購入を検討する場合は、以下のポイントに注意が必要です。まず、ポリウレタン素材は約10〜15年で劣化が進むため、2008年製品である以上、実用性は期待できません。コレクションアイテムや、博物館的な保存目的であれば価値がありますが、実際に水中で使用することは避けたほうが良いでしょう。
レーザーレーサーに使用されている接着剤やウレタン素材は、経年劣化で剥がれたりベタついたりしやすい性質があります。15年以上前の製品であるため、実泳に耐えられるコンディションのものは非常に稀です。
レーザーレーサーが残したもの
レーザーレーサー騒動は、スポーツ界全体に「道具の進化と公平性」という大きな問いを投げかけました。これは水泳に限った話ではありません。
| 競技・アイテム | 技術的特徴 | 結果・対応 |
|---|---|---|
| 競泳 レーザーレーサー |
浮力、体型補正、抵抗削減 | 全面禁止。素材と形状に厳しい制限を設定。 |
| 陸上長距離 ナイキ厚底シューズ |
カーボンプレートによる反発力 | 条件付き容認。ソールの厚さに上限(40mm等)を設ける形でルール化。 |
| スピードスケート スラップスケート |
踵が離れるブレード機構 | 全面容認。現在では標準装備となり、競技のスタンダードが変わった。 |
スポーツにおける技術革新とルールの関係
スポーツ用品の技術革新は、常に規制とのバランスを求められます。レーザーレーサーは「全面禁止」、ナイキの厚底シューズは「条件付き容認」、スラップスケートは「全面容認」と、各競技団体の判断は分かれています。
この違いは何から生まれるのでしょうか。一つには、その道具が「補助的」か「不可欠」かという観点があります。スラップスケートは今や全選手が使用しているため、公平性が保たれています。一方レーザーレーサーは、価格と入手性の問題から、一部の選手のみが恩恵を受ける「不公平な道具」となってしまいました。
競泳界への影響と教訓
レーザーレーサーの一件は、スポーツメーカーの技術力を世界に示しました。一方で、「道具で記録を買う」ような状況はスポーツの健全性を損なうという教訓も残しました。
現在、競泳のルールは厳格化されましたが、メーカーと統括団体(World Aquatics)は開発段階から密に連携を取り、ルールの中で最大限のパフォーマンスを発揮できる製品作りが行われるようになっています。レーザーレーサーは消えましたが、そのDNAは「科学的なアプローチで速さを追求する」という姿勢として、現代の水泳界に受け継がれています。
よくある質問 (FAQ)
まとめ
レーザーレーサーは、競泳界に現れた「黒船」であり、スポーツとテクノロジーの関係を根本から問い直した歴史的なプロダクトでした。
- 革新性: NASA協力のもと、無縫製・ポリウレタン素材で「浮く水着」を実現。
- 衝撃: 北京五輪での圧倒的な記録ラッシュとメダル独占。
- 終焉: 「技術ドーピング」との批判を受け、2010年に禁止。
その存在は短命でしたが、我々に見せてくれた「人間はどこまで速くなれるのか」という夢と興奮は本物でした。現在の競泳選手たちが、布帛水着で当時の記録を超えていく姿は、道具を超えた人間の可能性の素晴らしさを証明しています。
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